甘い香り
少しずつ暑くなってくる初夏の夜。
風呂にでも入れば少しはさっぱりとするかと思ったが、それは全くの逆効果だった。
新たに流れてくる汗を拭き、山南は溜息をついた。
夏は嫌いではないが、こうも蒸してくると、いい加減本格的な夏の到来が鬱陶しくなってしまう。
「…これは…」
山南が私室へ戻ると、甘い芳香が彼を出迎えた。
その主を探し室内を見回すと、文机の上に、一輪の花がある。乳白色のその花は、まだ開ききっておらず可憐にたたずんでいた。
まるでその花を飾った本人そのままのようで、山南の顔に柔らかな笑みが広がった。
「…山南さん…?」
その時、襖の外から控えめな声がかかる。
山南は浮かんだ笑みを深いものにし、そっと襖を開けた。
そこにいたのは、先程脳裏に浮かんだ可憐なままの姿。
他の隊士たちは、きっと見たことがないであろう、その艶やかな表情。昼間見せる凛々しい姿とは異なる、彼女のもう一つの顔だった。
それが見られるのは、恋仲であるが為の特権だと山南は自負していた。
「ありがとう、桜庭くん。これは、君が活けてくれたんだね」
「最近蒸し暑かったですから、少しでも気分が和らげばと思ったんですよ」
言いながら、鈴花は後ろ手で襖を閉めた。
室内に、花の甘い芳香と、彼女から立ち上る風呂上りの香りが入り混じる。
それは山南にとって何よりの香で、誘われるように鈴花の体を抱き寄せた。
「これは、梔子かい?」
「ええ。ご近所さんが分けてくださったんですよ」
いい香りでしょう?
腕の中で、そう呟く彼女に、山南は愛しさを覚える。
しかし、そんな彼の気持ちを知ってか知らずか、鈴花はするりと腕の中から抜け出し、梔子の元へ行き、嬉しそうにその白い花を眺めた。
いつまでたっても艶のある空気を理解してくれない彼女に苦笑いしつつも、山南はその姿を見つめる。
まるで、白い花が二輪あるようだった。
「本当に、きれいだね。純白だ」
君のように。
そう言うとまた顔を赤くして怒るのは目に見えているので、口から出そうになった言葉を飲み込んだ。
赤い花もかわいくていいが、今はまだこの清廉な白い花を眺めていたかった。
「ふふ。花は純白でも、実は橙色なんですよ」
「……へぇ、そうなのかい」
「染料にもなるんです」
「……白い花が、橙色の染料に……」
山南の瞳に、いたずらな光が宿る。
梔子に見入っている鈴花はそのことに気づいた様子はなく、再び伸びた山南の腕にいとも簡単に囚われてくれた。
「……山南さん……?」
「白い花も、恋をすると橙色の実になるんだね」
「……え……?」
腕の中で身じろぎする、白い花。上目遣いで、怪訝そうに見上げる様は、まだまだ五分咲きといったところか。
だが、この花が艶やかに咲く瞬間を山南は知っている。
どのようにして咲かせるのか、その術もすべて。
「山南さん?」
名前を呼ぶ愛らしい唇を己のそれでそっと塞ぐ。
触れ合うだけの口付け。
だが、それだけでも腕の中の花はほころび始めた。
「……私の、花……」
「……え……?」
小さ過ぎた声は、聞き取れなかったのか鈴花が聞き返す。
山南は、小さく笑い、耳元でそっと呟いた。
「恋をした君は、何色に染まるんだろう」
その言葉に、ようやく山南の言わんとしている事が理解出来た鈴花は、一気に顔を赤らめる。
それと共に、彼女から匂いたつような香りが湧き上がった。それはまるで、大輪の花が開いた瞬間のようだった。
さながら蜂のように、その甘い香りに誘われる。
赤く染まった彼女の首筋に顔を埋めれば、その芳香は更に強くなる。
山南はそれを思い切り吸い込んで、白い夜着の下に隠された紅く染まった花を食すべく押し倒したのだった。
「……大丈夫かい?」
腕の中で、押し黙っている鈴花にそう声を掛ける。
その問いには答えず、鈴花は甘えるように山南の胸に顔を埋めた。
裸の胸に彼女の熱い吐息がかかり、山南の体は反応をみせる。
しかし先ほどの行為の後、鈴花の体に力がない事を考えると、無茶は出来ない。
「……鈴……?」
「大丈夫じゃ、ないです……」
怒ったように呟くその声音も、どこか甘い響きを含んでいて、山南はそっと笑いを漏らした。
「もう……笑いごとじゃないですよ……」
「ああ、ごめん」
「今日は……いつもより、その……」
もじもじと恥じらうその姿が、更に山南の体を反応させるのだが、彼女がそれに気づく様子はない。
先ほどまで裸で睦みあい、今とてまだお互い裸だというのに、鈴花は言葉一つ伝える事さえ、恥じらっている。それが愛らしくてならなかった。
「……いつもより、激しくしてしまったかな……?」
言えない鈴花の言葉尻を次いで言う。
一瞬躊躇した鈴花だったが、すぐに首を縦に振り山南の言葉を肯定した。
「ふふ……」
「山南さん……笑い事じゃないですてば……。でも、どうして……?」
問われ、考える。
確かに、今夜は理性がいつも以上に欠けていた。
鈴花を抱くのに理性など吹き飛んでしまうのはいつもの事だが、それでも心のどこかに彼女の明日の任務だとかを考える余裕は残していたはずだった。
それが、今夜は全く考えられていない。明日は巡察もあったはずだというのに。
文机に目をやれば、白い花がこちらを向いて咲いていた。
甘い芳香をかもし出す、清楚な姿。
「……梔子の、せいかな……?」
「え?」
「甘い香りが、媚薬になったのかもしれないね」
そう言って笑えば、鈴花の顔はまた赤く染まった。
梔子以上に、甘い香りを漂わせながら。
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